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Note from daily life.

私にとっての「教育」と「学ぶこと」についてのメモ

Posted at — May 27, 2020

はじめに

社会人19年目にして、学校で学ぶことを始めた。社会人の学びというテーマでは多くの議論があるようだが、私自身は学びをどう捉えているのか、自分の整理のために言語化を試みた。

この文章は、自分自身に対する考えを整理するための言語化と、日常会話において周囲の親しい人に私自身を説明するツールとすることを目的としている。ここで言及する考え方や手法を推奨したり、成功や失敗の体験を誇ったり、他者からの評価を受けたいという狙いは無い。

また、アドバイスを求めているわけでもなければ、他者から賛同または批判を受ける筋合いもない。

専門的な解釈にも興味はないので、私が受けた印象と今取り組んでいることの整合性を検証できれば、言語化の目的を果たせる。

私にとっての「教育」

志向と機会

私は幼いころ、化石掘りや環境科学にのめり込んでいた。同時に、それらの取り組みを支えるコンピュータ(Mac)や様々な分析機材に触れる機会を得た。このとき、私が魅力を感じていたことを振り返ると以下の点となった。

大人の中で活動する機会に恵まれたし、新たな場を開拓し飛び込んでいくことができた。 しかし社会通念上許容されることなのか、今の価値観では微妙なところではある。多くの大人の配慮によって、素晴らしい場を維持できていたのではないかと思う。

このような機会に恵まれたお陰で、世の中には仕組みがあり、交渉の余地があり、目の前の事実が可変である可能性に目を向けるようになった。

権利と義務

私は権利を行使しない選択をしたことがある。

中学校は、地元の学校に通いにくく感じたので、教育委員会を訪ね隣の学校へ学区をまたいで通うことにした。 転校するも、意義を見いだせないし、他にやりたいことがあったので通わなかった。

その後、自分の専門領域を追求できる高校があったので入学したものの、やはり意義を感じられず、楽しめず、しかも通学に2時間かかるので出席頻度を下げた後に中退した。

私は、これらの選択を行う上で、憲法を一つの軸とした。

日本国憲法(条文抜粋) を見ると、以下の様に教育について言及されている。

まず、

第二十六条  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

というように、私は「権利」を有していたし、今も現に有している。 さらに、

2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

とあるように、親を含む保護者(この言葉にも疑問はあるが)は、私に教育を受けさせる義務がある。

ここで、私は権利の主体についての疑問を抱いている。

教育を受ける者は、権利を有しているので、権利を行使することも放棄することもできると考えた。 一方の保護者は、普通教育を受けさせる義務を負っているので、今の制度では小学校と中学校で教育を受けさせることになる。

しかし、「通わせる」とは書かれていない。つまり場所の定義はなく、教育レベルについてしか規定していないと捉えることもできる。

新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方について では「義務教育」制度の見直しについて記述されており、柔軟性や本来の目的に立ち返って制度設計を考えているように読める。

ところが、私にとって最大の疑問は、「義務教育」という言葉と、その重さである。 憲法の事典では「普通教育」という、字面からは教育レベルのベースラインを想起させる言葉であるにも関わらず、いつの間にか「義務教育」という完全にサプライヤーのロジックのような言葉になっている。 教育を受ける権利を有する、権利主体は、義務を負っていない。義務を押しつけられる筋合いもない。しかし、なぜ「義務教育」という言葉が一人歩きしているのだろうか。

権利を行使している

2020年4月を過ぎ、私は学校に在籍し、予習・復習が忙しい。 実は2019年7月から学校に通い、所謂「学習」に取り組んでいる。 つまり、今の制度において私が有する権利を行使し、大いに教育を受けている状態にある。

さらに、私は知人や交友関係から試行錯誤を重ね自分が追い求めているテーマについて探求する機会を得ているので、他者から学び自らの成長機会を得、他者に還元する取り組みをしている。 これができるのも、正に私が権利を行使しようとするとき、それを支援してくれる人がいるからだと解釈している。

学ぶとは何か

「学ぶ」の語源を「真似る」に見出す人もいる。 言葉の定義や由来は諸説あるので、日本語としてどうなのかということは議論を継続すればよく、ここで何か解を得たいとは思わない。

私にとって「学ぶ」とは、以下の5点である。

  1. 解釈したいが一人ではできない事象について、解釈する能力を得る
  2. 取り組みたいが道筋を見つけられない事象について、他者から学び打率を上げる術を得る
  3. 目指す姿と現状のギャップを分析し、軌道修正とギャップを縮める作業を繰り返す
  4. 私自身の経験を他者の学びの糧とし、自分と併走する他者を通じて自身の経験の抽象化・一般化を行い経験の汎用化を試みる
  5. 自身が楽しめる機会を得る手段、得続けるための成長機会の創出、今日より良い明日を生み出すためのルーチン

もう少し抽象化すると、「短所克服」「長所伸展」「汎用化」「還元」といった言葉になるかもしれない。

「学ぶ」は意識的に取り組むことではない

私にとっての学びとは、人生の一部であり、趣味のようなものとも言えるし、むしろ呼吸や鼓動のような生きていく上で無意識のうちに実行していることだと認識している。 逆に、私が5年間学びを止めたと仮定すると、5年前と今とでやっていることも、見出す価値も、その質も、何も変わっていないはずだし、 現に学びを止めていないから、いまこうして言語化に取り組んだり、洗濯物が速く乾く干し方をしていたり、仕事の効率が上がっていたりする。

意識的に学ぶか否かに関わらず、恐らく人間、あるいは生物は生存戦略として学び続けると思う。 失敗に基づき、別な方法を試し、成功した方法を採用しがちになっていく。これを止めるにはかなりの精神力が要求されるかもしれない。止めてみようと思う時点で学びを始めているとも思う。

つまり、程度の差こそあれ、学ばないということは無い。

意識的に学ぶこともできる

とはいえ、野放しで学ぶには限界があるし、限られた人生の時間の中で実現したいことがあるならば、最短経路を選択することも選択肢ではある。 そこで意識的に学ぼうと考えるのだが、いつ、どこで、どのように、誰と、何を 学ぶか、は自由だ。

自由なのだけど、そこには個人の価値観や優先度、選びうる選択肢が広がっていて、理想よりも現実的な、即効性のあるアクショナブルな手段を選ぶことになる。

「お勉強」と「学ぶ」は別物

私は勉強は嫌いだ。勉強というのは他者の価値基準に合わせ、他者からの評価を得るためにこなすタスクだと考えている。 しかも、勉強とは一方通行のインプットだし、一つ一つのタスクに議論の余地がない。 科学的に覆されている事実や時代錯誤も含む、固定観念の浸透のような形のように思える。

試験等を通じて、品質管理を行うことで、視点の多様性を排除している。 基準を見たすことがゴールになっていて、能力のベースラインに到達しているかとは別の基準が存在しているのではないだろうか。

特に、試験勉強によって試験を通過することが一般的になっており、能力の一時的な補強に過ぎないように思う。 それだけのことなら、検索エンジンを使えばよいので、私はやる意義を感じない。

学ぶということが、私にとっては継続的な取り組みであり機会創出であるので、お勉強は全く私の学ぶ意欲に適合しなかった。

学ぶ機会

学校に通わない選択を尊重したい

私は「義務教育」と「不登校」という言葉を極力避けている。 義務は支援者やサプライヤーが負うものであり権利主体にとっては義務では無いから、前者は「権利」教育であるはずだし、 後者については暗黙の「登校する義務」が定められてしまったことで、それに反する行動を否定的に表現していると捉えている。

そもそも、登校する行為は必須なのだろうか。 教育を受け、学び、人生を過ごす上で、この行為が求められるに至った背景がいまいち理解できていない。

そして、私としては、人の選択をバイナリ的に考えることを避けたい。 登校しないからといって、もしかしたら自宅で教育を受けているかもしれないし、研究に忙しいかもしれない。意義を感じられることに人生の時間を注いでいるかもしれないのに、「不登校」という真偽の一方に分類していいのだろうか。 この行為こそが、果たして教育機会を奪っている、学びを抑制しているのではないだろうか。

学校に通いたいが通えない、即ち権利を行使しようとする者が恩恵を享受できないのであれば、それは支援しなければならない。それは社会の義務だと思うので私は微力ながらもリソースを割きたい。 一方で学校に通うまでもないが、別の手段を用いて教育を受けたり、学び続けることで権利を行使したいのに、それが叶わないのであれば、それもまたリソースを割いていきたい。 どちらも同じこと、何の違いもない。

学ぶ行為を否定したくない

社会人として大学院に通うことで学ぶという選択をした当事者として、私の狙いは以下の3点に尽きる。

  1. 過去の経験を整理、体系化する。経験の抽象化と、これまで出会った凄い人の物の見方や意思決定の背景を理解したい。
  2. 自分に不足している能力に気付くこと、気付いた上で強化すること、あるいは強化せず他者への頼り方を身につけること。
  3. 自分の経験から得た学びを他者の学びの機会にする、私固有の視座と視点を提供することで多様性に貢献する。

私は10代が終わり20代に入るところで、「10年間の前半は長所伸展、後半は短所克服に時間を使う」と決めて取り組んで来た。 インテル社が実践していた「Intel Tick-Tock」に重ねていて、改良と革新を繰り返すようなイメージだ。

私には、私の経験や価値観があり、選択を繰り返すことで今日に至った。この現状に対して私は絶対的な確信を持って選択を肯定できる。 同じように、私は他者が異なる経験と環境によって、異なる価値観を持ち異なる選択を重ねていることに対して、革新をもって肯定したい。 そうすることで、多様な経験に基づく知見が流通し、社会として知を共有できると考えるし、他者の学びの機会は自分の学びの機会に、自分の学びの機会はいずれ他者の学びの機会に繋がると信じている。

続く…

このテーマを考えると、誰の視点なのかがわからなくなる。 私という実体は果たして学びとどう向き合っているのか、そして、いまこうしているのは学びの結果なのか? 学んでいるつもりになる手段なのではないか、学んだと錯覚させることを学んだ結果なのか、真の学びとは結局のところ生存戦略上使えるテクニックを身につけているかということなのか?

学びを否定しないという立場は、肯定するということと同一なのか? それとも介入しない選択があるのか? 介入しないことで、機会を失う可能性があるとしたら、否定しているのではないか? 機会を失うことも学びなのか?

VUCA時代において、機会の希少性が高まっている気もする。 学校制度のアップデートや技術の発達で、機会は増えている気もする。

しかし機会の価値に対して、他者の価値観に左右されるシーンを目の当たりにすることもあり、けっきょく目的意識がどこに向いているかも重要な気もする。

言語化うまく行かなかった、という学び。

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